ジブリのゲド戦記、抜けない剣に疑問を呈することもなく、封じられた刀でいとも簡単に敵をなぎ倒すアレン。抜けないことにストレスを感じる風もなく敵と戦うアレンに、何となく違和感を感じた方も多かったかもしれませんね。
今日は、アレンが剣を鞘から抜くことができなかった理由や、それと深くかかわるアレンの恐れや影についての考察です。
ゲド戦記アレンが剣を抜けなかった理由とは?

アレンが剣を抜けなかった理由とは?
ジブリ映画『ゲド戦記』で、アレンが手にしている王家の剣。
それにもかかわらず、彼はその剣を決して抜くことができませんでした。
なぜ彼は剣を抜けなかったのでしょうか?
そこには、アレン自身が抱える「恐れ」や「葛藤」、そして剣に込められた特別な力と条件が深く関係しています。
この剣は、単なる武器ではありません。
「自らの恐怖を克服し、誰かのために戦う覚悟を持った者だけが抜くことを許される剣」だったのです。
映画では、ゲド(ハイタカ)がアレンに向かって「今のそなたには抜けまい」と淡々と告げる場面があります。
しかし、その真意については深く語られることはなく、アレン自身もその意味を深く追求しようとはしません。
一見すれば、剣を抜けないことに対して特に動揺も苛立ちも見せないアレン。
それがかえって、この場面に違和感を覚えた人もいたのではないでしょうか。
しかし、原作『ゲド戦記』第3巻『さいはての島へ』では、この剣の役割がはっきりと描かれています。
そこではこう記されています。
この剣は人の命を救うため以外はかつて一度も抜かれたことはなく、また抜かれ得ないのだとか。復習や、欲や、ただ血を見たいがための果し合いとか、もうけを目的とした戦争の際には、剣は使おうにも使えないのだという。
引用元:ゲド戦記「さいはての島へ」
映画の中では、ハイタカがアレンに出会って間もない頃、その剣を大切にするアレンに対して、「おそらく今のそなたには抜けまい」とサラッと伝えはするものの、特にアレンが反応することもなく、詳細に触れられることもありませんでした。

アレンは剣を持っているのに、なぜ抜けなかったんだ?



それは彼が自分自身のことばかり考えていたからよ。でも、テルーを守ると決めたとき、彼は剣を抜くことができたの。
誰かのために戦う時にのみ、剣を抜くことができることは原書に記されています。
映画のクライマックスで、アレンは剣を抜きます。テルーを守るために失敗は許されなかった。ただただ、テルーを守ること。自らのことを一切考えず、テルーを思うその気持ちだけとなったとき、それが剣に伝わったんですね。この剣を抜くためには、「自分の恐怖を克服し、誰かのために戦う覚悟を持つこと」が必要だった。恐怖は、誰かのためを心の底から願う気持ちで払拭されたということなのでしょう。
アレンの持つ剣の由来
原作でアレンが持っていた剣は、エンラッド王家に伝わる由緒正しい宝剣、「セリアドの剣」と呼ばれています。
美しく装飾され、強い魔法の力を持つこの剣は、単なる武器ではなく、王の権威と世界の秩序を象徴する存在とされています。
エンラッド王国は、アースシーの東方群島に位置し、かつては均衡と調和を重んじた統治を行ってきた古い王国でした。
しかし、長い時を経て王統は断絶し、エンラッドは長らく「王なき国」となっていました。
その間、世界全体の均衡もまた乱れ、秩序が崩れかけていたのです。
この剣は、王権の象徴であると同時に、エンラッド王家が担う「世界の均衡(バランス)を守る」という使命そのものを体現しています。
力や欲望のために使われることは決してなく、命を守るという純粋な意志を持つ者にしか、その力を貸すことはありません。
アレンが恐れた影の正体とは?


映画でアレンにつきまとう影の正体は、彼自身の心の中の光の部分がさまよっているものでした。



あの影って、一体何者なんだ?



影と言いながら、光といわれてもちょっとわかりにくいかも
沼地でアレンの影とクモが対峙する場面があります。クモが「去れ」と影に言ったとき、影は少したじろいでしまいます。管理人としては、このシーンだけがちょっと残念な思いでした。
映画ゲド戦記で描かれる影は、アレンの心の中から締め出されてしまった光の部分といわれています。心の中に闇の部分と光の部分があり、自分の意志が闇の部分を見つめるという選択をしたなら、その心は恐れを感じ、怯えることになるというのは理解できます。
そして、意志が闇を見ている限り、光の部分が手出しをできないというのもわかります。ただ、絶対に違うでしょと思うのは、光の部分は闇ごときでたじろぐことは無い。ただただ、アレンの意志が、光の方に向き合ってくれるのを待っているのだと思うのです。
闇がどんなにアレンの意志を引き寄せようが何しようが、光の部分は決して闇の部分の動きによってたじろいだりはしない。だから、あの場面では、影として描かれているアレンの心の中の光は、ただ哀れな闇を見つめるくらいにしておいてほしかったなと思うのです。
アレンの真(まこと)の名前は何?真の名のもとで何が起こった?


アレンの真の名は「レバンネン」。この名前を受け入れたことで、彼は影を克服し、真の自分を取り戻すことができた。



アレンの真の名って何だったの?



レバンネンよ。それを受け入れたとき、彼は本当の自分を取り戻したの。
『ゲド戦記』の世界では、「真の名」はその人の本質を示す重要な要素です。真の名を知ることは、自己を受け入れることと同じ意味を持ち、逆に真の名を知られると相手に支配される危険もあります。
アレンの真の名は「レバンネン」です。彼はこの名前を受け入れた瞬間、自己の恐怖や迷いを克服し、影の支配から解放されました。
物語のクライマックスでは、クモの館でテルーがアレンの本当の名前で呼びかけます。そして、自らの光を取り戻したアレンがクモに立ち向かう時、剣に向かってお願いだ命のために(さやから抜けてくれ)」と言ったとき、はじめて剣を抜くことができるようになったのです。
しかし、真(まこと)の名前を思い出したり、受け入れたりすることだけで、影や恐れを克服することができるのでしょうか? それであれば、だれでもが、お互いに真の名前で呼び合ったり、あと、自分の事だけ考えずに、人のためを思って生きることを教わって育ちさえすれば、影や恐れに悩まされることは無くなるのかなと思ったりします。
原作1巻でも、真の名前は本当に心許せる真の友にしか伝えることができないような感じで描かれていましたね。そういえば、心許せる。。とはそういうことなのかも。真の名前を相手が知るということは、自分の真の姿をさらすということで、真の姿が見えたからこそ、相手はそれに対して何事かを仕掛けることができるということですよね。
真の友ならば、相手の幸せを願うことでしょう。それが、敵対する相手に真の名前を把握されてしまった場合には、そこに攻撃を加えることをも相手に赦してしまうことになる。
すると、自分自身はもとより真の名前を知っていたわけで、テルーがアレンの真の名前を知り、その名でアレンに呼びかけた時、アレンは以前と顔つきも変わり、影や恐れを克服したように見えましたが、それは、テルーがそれを願ったせいではないかと思うのです。
エアの創造とアレンの選択
映画の冒頭や原作にも登場するエアの創造の詩にはどのような意味が込められているのでしょうか?



エアの創造って、どういう意味なんだろう?



すべての命と世界のバランスを守る、ゲド戦記の根本にある大切な考え方だよ。
『ゲド戦記』の世界では、「エア(Ea)」は創造された世界そのもの、つまり生命の世界の秩序と均衡を意味しているようです。すべての存在が本来あるべき場所で、正と負の均衡(バランス)が保たれている状態とでもいうのでしょうか。
この調和が乱れたとき、命のバランスが崩れ、世界は混乱と破滅へ向かう。映画や原作の中で、様々なバランス崩れによって災いが起こりますが、そもそも「バランス」という状態が存在し、世界は成り立っていたのだとう大前提を示したものかなと推測しています。
映画『ゲド戦記』のアレンは、父を殺めた罪悪感と恐れに囚われ、自分自身の光を見失っていました。それはまさに、バランスが乱れた状態と言えます。
しかし、テルーのために剣を抜く決意をし、他者のために生きようとしたことで、アレンは自らの心の均衡を取り戻しました。
そしてそれは、エアの創造で示されたバランスの中での「人の在り方」を体現した瞬間だったのかもしれません。



アレンが恐れや影を乗り越えたことも、世界の均衡を取り戻す一歩だったのかな



エアの創造は、ただの世界の話じゃなく、一人ひとりの心の調和から始まるのかもしれないわね
まとめ
この記事では、ジブリ映画『ゲド戦記』におけるアレンが「剣を抜けなかった理由」から始まり、彼がどのようにして自らの恐れや影と向き合い、ついには剣を抜くことができたのかを考察してきました。
アレンが手にしていた「セリアドの剣」は、ただの武器ではなく、王家の正統性と世界の均衡を象徴する存在です。この剣は、自己の恐怖を乗り越え、誰かのために戦う覚悟を持つ者にしか応えないものであり、アレンはその条件を満たすことで初めて剣を抜くことができました。
彼が「テルーを守りたい」と願い、命を懸けて行動したこと。そして「レバンネン」という真の名を受け入れ、自らの影と光を統合したことが、彼自身の内なる均衡を回復させたのです。それは同時に、崩れかけた世界のバランスを取り戻すための大きな一歩でもありました。
また、「エアの創造」に象徴されるように、世界の均衡は一人ひとりの心の在り方と密接に繋がっています。アレンの成長と選択は、ただ個人的なものにとどまらず、命あるすべての存在が織りなす大きな調和に影響を与えるものだったのだといえるでしょう。
最後までご覧いただいて、ありがとうございます。