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映画ゲド戦記の竜の正体は何?最初の2匹の共食いや金の竜が表すものとは?

映画『ゲド戦記』の冒頭に登場する2匹の竜の共食いは、ストーリー展開前ということもあり、多くの視聴者の心に残るシーンのひとつです。映画を通して何体かの竜がでてきますよね。映像のインパクトが強いだけにそれぞれに「どういう意味があるのだろう?」「物語全体とどうつながっているのかな?」と気になった方もいるのではないでしょうか。

なんとなく分かったつもりでも、もう少し整理してみたい……そんなふうに感じること、ありますよね。今回は、冒頭の竜の戦いが持つ意味や、その役割について改めて考察していきます。

この記事はネタバレを含みます。映画を未視聴、原作未読の方は特にご注意ください


目次

映画『ゲド戦記』の冒頭に「2匹の竜の戦い」が登場する理由とは?

映画の冒頭では、2匹の竜が互いに戦い、一方がもう一方を喰らうというシーンがありましたね。この「竜の争い」は、ゲド戦記の世界における異常事態を象徴しています。

原作『影との戦い』などのアースシーシリーズでは竜は「自由な存在」として描かれ、人間とは異なる次元に生きる存在です。しかし、映画ではその竜が共食いするという異常な現象が起こっています。

これは、世界の均衡が崩れ始めている ことを示唆しており、本来は争うことのない竜でさえも狂気に陥るほど、世界が歪み始めていることを示しています。このシーンは、物語の本筋において「生命の均衡の崩壊」というテーマを強く印象づけるものとなっています。

竜が共食いするなんて、普通じゃ考えられない世界観なんだよな

それだけ世界の均衡が崩れているってことよね


なぜゲド戦記の世界で均衡が崩れ始めたのか?

映画『ゲド戦記』では、「世界の均衡が崩れている」ということがたびたび語られます。では、その原因は何なのでしょうか?

物語の中で、ハイタカ(ゲド)は「魔法が弱まっている」「力が失われている」と語ります。これは、自然の調和が崩れ、人々の内なる均衡が乱れていることを示しています。

その最たる原因は、クモが不老不死を求めたこと にあると考えられます。クモは生死の境界を超えようとし、自然の摂理を歪めようとしました。その結果、生命の循環が乱れ、世界そのものの均衡が崩れ始めたのです。

クモのせいで世界が壊れ始めたってことか?

そうね。不老不死を求めることが均衡を崩す原因になったのよ

ネット上では、均衡の崩れについて以下のような考察が見られます。

  • 「クモの不老不死の追求が原因では?」
    クモは生死の境界を超えようとし、生命の流れを歪めたため、均衡が崩れたのではないか。
  • 「人々が魔法を信じなくなったから?」
    原作では、魔法は言葉の力に依存しており、人々が真の言葉や魔法を軽視するようになった結果、魔法が弱まったのでは?
  • 「人間の欲望が膨れ上がったことが影響?」
    世界の均衡は調和によって成り立っていたが、人間が過剰な力を求めるようになり、歪みが生じた。

映画の描写を踏まえると、均衡の崩れの主な原因は 「人間の欲望による自然の摂理の乱れ」 にあると考えられるかもしれません。

クモは不老不死を求め、生命の流れを無理やり変えようとしました。この行為が、生と死のバランスを崩し、魔法の力をも衰えさせたのは間違いなさ祖です。また、映画では人々が物欲により争う様子も描かれており、竜をもってしてもくるってしまう状況下で、もともと、その素養のあった人間の欲望が均衡の崩壊をさらに加速させているということなのかもしれません。

因みに、クモの死後、世界の均衡が一時的に回復したかのように見えますが、第5巻では再び均衡が揺らぎ始める様子が描かれています。​これは、均衡の崩れが一度の出来事で完全に解決されるものではなく、継続的な課題として存在していることを示そうとしているようです。

これらの情報から、第5巻『アースシーの風』では、人間の欲望や行動が世界の均衡に影響を与え続ける様子が描かれており、クモの死滅だけでは均衡の問題が完全には解決されていないことが示されています。


人間が唯一均衡を崩せるなら、なぜ過去には起こらなかったのか?

映画の中で「均衡を崩すことができる生き物は一種類しかいない。それは人間だ」と語られます。つまり、竜やほかの生物は均衡を守る存在であり、破壊するのは人間の意志と行動によるものということです。

しかし、もし人間が均衡を崩せる唯一の存在なのであれば、なぜもっと昔の人間たちは均衡を崩さなかったのか? という疑問が生じます。

過去の時代には、魔法が強く、人々は自然との調和を重視していた可能性があります。しかし、現代においては「不老不死を求めるクモ」「力を欲する貴族たち」など、人間の欲望が肥大化しすぎた結果、均衡が崩れ始めているのではないでしょうか。

昔の人間は均衡を守ることができていたのに、ダメになってしまったんだな

それだけ、人間の欲望が膨れ上がってしまったのね。それともクモだけの影響なのかしら

アースシーの世界では、魔法は自然の一部として存在し、人々はその力を理解し、尊重していました。​魔法使いたちは、自然との調和を保ちながら魔法を行使し、世界の均衡を守ることを重要視していました。​このような環境下では、魔法は強力かつ安定して存在していたと考えられているようです。

しかし、時代が進むにつれて、人々の欲望や野心が増大し、自然との調和が乱れ始めました。​特に、クモのように不老不死を求める者たちが現れ、生命の循環を歪めようとする行為が増えました。​

これらの行為は、世界の均衡を崩し、結果として魔法の力が弱まる原因となりました。​

このように、過去の強力な魔法は、人々が自然との調和を大切にしていたからこそ維持されていました。​しかし、人間の欲望や行動が均衡を乱すことで、魔法の力が衰退してしまったと考えられそうです。

このテーマは、『ゲド戦記』全体を通じて描かれており、自然との共生や人間の欲望がもたらす影響について深く考えさせられますね。


クモの正体と均衡を壊そうとする理由とは?

映画『ゲド戦記』におけるクモの正体とは、一言で言えば「不老不死を求める魔法使い」です。彼(または彼女)は、自らの肉体を超越し、永遠の命を得ようと画策します。

クモが求める「不老不死」とは、本来の生命のサイクルを否定する行為です。生と死の境界を歪めることこそが、世界の均衡を大きく狂わせる原因 となります。

クモはただ生き延びたいだけだったのか

そう。でも、それが世界のバランスを壊してしまったのよ


アレンとテルーの前に現れた金の竜とは?

映画の終盤、アレンがクモの魔法に囚われていたとき、テルーが駆けつけ、彼を真の名前で呼ぶことで正気を取り戻します。その際、テルーは自らの真の名前が「テハヌー」であることをアレンに告げます。その瞬間、二人の向こう側に金色の竜が現れ、静かに飛び去っていきました。

この金の竜について、「テルー自身が変身したものなのか」「別の存在なのか」という疑問が生じます。映画の演出では、テルーは人間の姿のままであり、金の竜が彼女とは別に登場するため、テルーと金の竜は別の存在である可能性が高いと考えられそうです。

原作『アースシーの風』において、竜と人間はかつて同じ起源を持つことが語られています。竜の長老カレシンは「我々は西を選び、人間は東を選んだ」と語っており、これは竜と人間が元々同じ種族でありながら異なる道を選んだことを示唆しています。映画の金の竜は、この背景を踏まえ、テルーと竜族のつながりを象徴させるシーンとして、金の竜を登場させたのかもしれません。

過去のネット記事にもその答えを探すのですが、明確な回答はどうもなさそうです。原作由来のオーム・エンバーという竜を示唆しているとする記述や、同じく原作由来の先述の「カレシシ」という最長老の竜ではないかなどの推測がなされていますが、どうも確定ではなさそうです。

まとめ

映画『ゲド戦記』では、「竜」と「均衡」の関係が物語の核心を成しています。冒頭の2匹の竜の共食いは、世界の異変と均衡の崩れを象徴するものであり、この異常事態が物語の発端となっています。

また、均衡が崩れ始めた要因として、不老不死を求めたクモの行動が挙げられます。生と死の境界を越えようとする試みは、生命のサイクルを乱し、世界全体に悪影響を及ぼしました。さらに、過去の人類は自然と調和を保っていたものの、時代とともにその均衡が失われ、人間の欲望が肥大化したことも影響していると考えられます。

クモの目的は、不老不死を手に入れることでしたが、その行為が世界の均衡を壊し、結果的に彼自身の破滅を招くこととなりました。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

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